『レタッチ』と『化粧』
以前『加工』と『無加工』について書きましたが、今回はそれに関して視点を変えて・・・そもそも『写真に手を加えるとはどういう事なのか』というお話。
(注:レタッチ・編集・加工・現像など、同様の作業を示す言葉は複数ありますが、本文ではそれらを総じて『レタッチ』と表記します)
私は常々、『レタッチとは化粧のようなもの』だと思っています。
化粧が得意な人もいれば苦手な人もいる。得意・苦手の意味にしても、化粧の作業自体が苦手という人もいれば、化粧という行為に抵抗を感じる人もいる。
スッピンで堂々と買い物に行く人もいれば、化粧をしなければ絶対に人前に出ないという人もいる。
価値観もスキルも、人それぞれです。
そして世の中には様々な『場』というものが存在します。
スッピンで問題ない場もあれば、それなりに化粧をしていないと恥をかく場、過度の化粧が場違いになる場、化粧しようとしまいと関係ないような場。
近所のコンビニにスッピンで行きたければ行けば良いし、化粧が必要だと思うならばすれば良い話でしょう。「問題ない」や「恥ずかしい」と思うのは自分の価値観であり、他者がどうこう口を出す話ではありません。
しかし、フォーマルなパーティーの場に「私はスッピン派です」では、場違いだと感じる人間がいても仕方ありませんし、葬儀や通夜に派手なメイクでケバケバな参列者がいれば、眉をひそめる人もいるでしょう。
そういった『顔を見られる場』を『写真を見られる場』、『スッピン→撮って出し』『レタッチ→化粧』と置き換えて考えると、面白いほど符合したりするのです。
写真に置き換えて一例を挙げるとすれば…
子供の写真を親戚に見せるだけならばレタッチなどせずとも問題はないでしょう。子供が写っているというだけで喜んでくれますし、作品としてのクオリティを重視して見るものでもありません。
それでもなお、より活き活きとした写真を見せたい…と思うのならば、時間をかけてレタッチすれば良いのです。
しかし人目を引くようなインパクトが求められるフォトコンテストに、主題がまるで映えていない撮って出し写真を応募しても相手にされません。
そして、ありのままの自然風景が求められている公募に過度なレタッチ作品では場違いだと思う人もいる…ということです。
ちなみに『どんな場であろうと自分のスタイルを貫く』という信念を持っている方も世の中には存在します。
化粧であれば、人前でも常にスッピンでナチュラルな顔を良しとしている方もいますし、その場に合わせて臨機応変に対応する方もいる。そしてどんな場でも派手にメイクすることこそ自分のポリシーだ、という方もいる。
写真も同様に「基本的に撮って出しでかまわない」「用途に合わせて変える」「常に自分のスタイルで仕上げる」と多種多様です。
大事なのは
その『場』は何が求められているのか。
その場において『自分のスタイル』を貫くのか、それとも適切に立ち回るのか。
その選択が自分にとって意義がある事なのか。
…を、しっかり広い視野で考えることだと私は思っています。
スッピンと化粧、撮って出しとレタッチ、どちらが上とか下とか正解とか不正解とかいう話ではないのです。
なにかしらの場で写真のレタッチに関し疑問を感じた時は、一度化粧に置き換えてみて下さい。
多くの人間に自分の作品を見せる場で、無加工を誇ることの滑稽さ。アートとして写真を昇華させている人間に対し、それは偽物だと主張することの無意味さ。
そしてそれら全てに関して、自らの価値観を他人に押し付けることの愚かさ。
レタッチの本質を理解もせず短絡的に「投稿は全て無加工です!」と無意味な主張をしてみたり、どんな場でも一概に「現実の改変は写真ではない!」と批判するなんて論外。
そういう方々は自分が花嫁として参加する結婚式で「私、今スッピンです!」と誇ってみたり、ミスコン会場で出場者に「化粧で誤魔化すのは詐欺だ!」と叫んでいるようなものですよ。