『写真撮り』と『盗人』

突然ですが、私は常々『写真家』『盗人(ぬすっと)』は似たようなものだと思っておりまして。

人物や撮影許可が必要な建造物に関しては当然、法律・規則に準ずる必要がありますが、法的に問題が無い(もしくはグレーな)被写体であれば平然とシャッターを切り、自らの作品として世に送り出す。

そうやって切り取ってくる建物や物品のほとんどは私の所有物ではありませんし、目の前に広がる自然風景も私の土地ではありません。

どこかの誰かの何かを拝借して金銭を得る。まさに盗人、もしくは転売ヤーのようではないですか。

むろん、誰でも簡単に盗みや転売で稼ぐ事ができないのと同様、写真撮りも誰でも簡単にマネできる仕事ではありません。

盗みにも技術が必要なように、写真は構図・露出・ピントなど基本的な撮影技術はもとより、パソコンを使ったデジタル技術も必要になってきています。

私のようにフリーランスで食っている人間であれば『写真撮影をどう収入と結びつけるか』というマネタイズスキルも身に付けけねばなりません。どんなに写真が上手でも、ただ撮っているだけで財布は膨れませんから。

単純に盗むだけでは飽き足らず、盗品を金銭に変えるルートまで確保しているのが写真家という職業です。

もちろん盗みは許されない犯罪。それに対し写真撮影は社会的に認知された行為であり、同時に芸術でもあります。

しかし、あくまで『自分のものではない、誰かの何か』が存在してこそ成立する芸術。

写真とは目の前で反射する光の粒子を記録しているだけで、画家や作家や作曲家のように無から有を生み出しているわけではないのです。

盗人と一口に言っても千差万別、盗みの方法も多種多様あるように、写真撮りにもそれぞれこだわりや撮影スタイルがあります。

あくまで私個人の信条ではありますが、写真撮影が瞬間を盗む行為である以上、どうせならば正々堂々スマートに盗みたいし、他者に迷惑をかける盗みはしたくない。

それゆえ、勝手に通行人を撮影し黙って去る『撮り逃げ』は姑息なコソ泥だと思っていますし、周囲に迷惑をかけるような撮影(長時間の場所の占有・混雑場所での三脚使用)は下賤な無法者。そのような、盗みの美学も持たぬ輩と一緒にされたくはありません。

盗人にも三分の理ではありませんが、どうせ盗むならば矜持を持って盗みたいではないですか。そしてもし許されるならば、義賊のように苦しんでいる誰かに何かを与える盗人でありたい。

「正しいかどうかではなく、楽しいかどうかで選ぶべき」

そんな愚かな思想がもてはやされる時代だからこそ、自分を律し、誇り高く盗む。

「楽しければ良い」「まずは楽しむことが大事」現代人のそういった浅はかな考え方こそ、自分勝手なカメラマンや迷惑な撮り鉄の増加に繋がっていると私は思っています。

…と、話が逸れてしまいました。

要するに、写真撮りなんぞそこに被写体が存在しなければ屁の役にも立たない存在。

芸術家を気取り偉そうに講釈を垂れていても、所詮は借り物商売なのですよ。

・・・とは言え、自分の仕事を卑下しすぎるのも宜しくない。

イメージの良い例えをするならば、料理人のようだと考えて頂けないでしょうか。

目の前に一切の食材が無い料理人はただの人であり、何も生み出す事はできません。どんなに一流シェフを気取っていても、そこに食材あってこそのスキルです。

しかし、彼らは一般人にはどう調理して良いのかわからないような食材ですら、極上の料理に変える術を持っている。

写真撮りも似ています。

素人ならばなんの変哲もない写真にしかできない被写体を、誰かの胸を打つ作品に変える事ができる。

極上の高級食材であればド素人が調理してもそれなりに喰える料理になるでしょう。同様に、定番の絶景フォトスポットもカメラを持ってそこにいさえすれば、誰でもそれなりに美しい写真が撮れます。

もちろん、そういった場所でより美しい作品を求めるスタイルも良いと思います。むしろそういった写真のほうが他者から評価され、金にもなりますし。

しかし、私は誰も見向きもしない食材やパッと見はウマそうに見えない材料、そんなものを極上の料理に変える料理人になりたい。

誰も見向きもしない路傍の花や、とうてい主役にはなれない生き物。そういったものをより美しく表現し、誰かの心を打つ存在に変えてやりたい。

その想いこそが反吐を吐きながら日々撮り続ける拠り所でもあり、私の追い求める写真家像でもあります。

…まぁ諸全独りよがりではありますがね。